えかきのこころ


by macaron-framboise
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今回の旅はタイ。

私は旅をするのが好きです。

行くところ行くところ
出会うべき人、現実、景色、音、香り…
出会うべきものたちが待っている気がするから。

今回ネットで見つけたこの旅の名目は
「国際ボランティア」(孤児院にて。)
http://travel.plaisir-i.com/thailandtour.html

こういった旅を斡旋するプレジール様の企画、対応は素晴らしいものでした。
http://travel.plaisir-i.com/


ただ
私は初めからこれをボランティアだとは思っていませんでした。

孤児だとかボランティアだとか、そんな言葉には違和感を感じてならないのです。

何故そんな風に人をあわれむような言葉を用いるのか。
ひねくれた私は、どうもそういった言葉は、
どこかその対象に対して格差や優越感を持って自分を過信しているように思えてならないのです。

何が幸せ?何が不幸?
そんなのその人の感じたままでいい。
恵まれた環境の中でも自分が世界一の不幸者だと感じる人も居ます。

第一、恵まれた環境って何?それも誰が決めたの?
例えば孤児院の子どもたちや発展途上国と呼ばれる国の人たちがそれ以上の生活を知らないとしたら?
その生活のなかで十分に幸せを感じて、一生懸命に命を燃やす方々に失礼だと感じてしまうのです。


人はその場を楽しむ力を持っています。0から作り出す力も、生きる力も持っています。

もし、そのために何か必要なものがあるとしたら
それは進んだ文明や守られた環境、そして親だとも限らない。
人にとって必要なのは
ただ「人」ではないでしょうか。

幸せをつくる条件があるとしたら、それも「人」だと思います。


ワットサケオの子どもたちは、ものすごい大家族(仲間)の中で、毎日笑って求め合って助け合って、自分たちで生きています。

あくまでも自論ですが、正直日本の子どもたちよりずっと、人間らしさを感じました。
勿論、現実に在る環境の中で生きる事が大切なので今日本で生きる子どもたちを否定しているわけではありません。

ただ、長い生活のほんの一部にすぎないけれど、私がワットサケオで見た子どもたちの中で涙や大喧嘩は本当に見られませんでした。
我慢しているのではなく。いつも誰かと居て、一人ぼっちじゃないのです。

私が現在受け持つ同じ年齢の子どもたちに対して、私は仲間の絆を確立するのに試行錯誤なのに、ここでは仲間が仲間である事が、ごく自然に成り立っているのです。


涙のかわりに、毎日笑顔に会えました。

遊んでいる高校生のもとへ小学生が国語のプリントを見せに行こうものなら、みんな遊ぶのをやめて勉強を教えてあげていました。

目が合って、手を合わせ挨拶をすれば、誰もが他の手を止めて、手を合わせ微笑んでくれました。
タイ語が分からない私に、伝わるまで一生懸命に身体を動かしたり、習いたての英語を用いたりして伝えようとしてくれました。

万国共通、いたずらっこも恥ずかしがり屋もいるけれど、みんな最高の笑顔を持っていて、それを惜しみなく分け合っていました。

こんな世界、あるんだ。
って、思いました。


現実的に大人の目が少ない中で、人の物をちょっと盗んで隠してみたり、ちょっとズルしてみたりもするけれど
それって私にはすごく子どもらしく見えました。
だからと言って、そこで成長してきた最高学年の高校生にひねくれた子は居ないわけだから。

年頃だからアクセサリーをつけたり髪も染める。
ストレスや押さえつけるものが少ない環境。


ちゃんとみんなで、
ちゃんとその場所に

生きている。

羨ましく思いました。


私は一般に言う恵まれた環境に生きながら、すごく不器用で、思考の硬さ難しさによく嫌気がさします。
教師でありながら、そんなに出来た人間じゃない。


そう、ワットサケオの先生方はその点でもとても輝いて見えました。
先生方は必ず手に棒を持っています。子どもをたたく為の棒です。
棒がなければ手でたたく、つねる、ひっぱる。

日本の教育界に生きる私は、初めは見て居られなかったし、本当にびっくりしました。
でもすぐに、そんな事も必要範囲内に思えるほど、どの先生からも常にたっぷりの愛情を感じました。


先生方は優しくて、一人一人をよく見てよく知っていて、
子どもたちも先生を頼りにしているし大好きなのがよく伝わって来るのです。

たたかれた子も、おびえた表情ではなく「エヘヘ」と笑うか、シャキッと気合が入ります。
周りの子たちも「ククク」と笑います。
厳しい表情でビシッと起こったあと先生は大抵すぐに子どもに笑いかけます。

聞けば、タイの学校ではどこでもルールを伝えるためにビシッとたたくとか。
だからそれが当たり前。

一見大人が子どもを支配しているようだけど、
踏み込めば踏み込むほど、そのストレートな表現から、大人が大人として、子どもと寄り添っている事を感じました。

それもなんだか人間らしく思えて、
最終日には、友だちにイタズラをして先生にたたかれた子を見て私も思わずクククと笑いました。
その子は私の方を振り返ってにっこり笑い、先生の後ろ姿にあっかんべ~をしました。


子ども同士、先生同士、そして子どもと先生が
本当に家族のように温かく繋がって居ました。


そこへボランティアと呼ばれる外人がよく出入りします。

それをみんな喜んで迎えてくれます。それどころか、学校敷地内に住む先生は休日を利用して心いっぱいのもてなし、観光につれていってくれるのです。


私は入れ替わり立ち替わりに来るボランティアの一人で、
ここの生活はいつもとかわらず流れています。

ボランティアとしてここへ来る一人一人は
このいつもと変わらない生活の一部に
これだけの影響を受けて、自分の人生と重ね、自分の生活に戻って行く。


助けられているのはどっちだろう。
「ありがとう」は、どっちの言葉だろう。

少なくとも私はどう考えても何を取っても
私から、ありがとう。



何がボランティアか分からないけれど、
もし何かあの子たちのために出来た事、出来る事があるとしたら…

ほんのささやかだけど、ありったけの日本の遊びを用いて一緒に遊んで会話して
笑顔を引き出して、笑いを共有できたこと。
それから、こうして私の周りの人にこの現状を伝えて、
関心のある人にワットサケオの子どもたちの事を少しでも想ってもらう事。


そもそもやっぱりこれはボランティアという枠ではないと思いました。
勿論本当に必要な人に支援する世界のgive&takeの仕組みは大切だけど、
ここではそうではないと思います。

そして私は世界規模で社会に貢献できる程、心も体も大きくないから、
今、日本の、この幼稚園のこのクラスの子どもたちのために生きることを大切にしたいと
改めて強く感じました。


それから今在る環境に感謝しながら、
私が生きるために必要な、大切な「人」を
大切にしたい。

おまけに。
今回もコミュニケーションに必要不可欠だった絵。
わたしは、絵は人と人をつなげる絶対的な手段だと思っています。


手で絵を描いて、目で見て、身体で伝えられる事の幸せをかみしめながら・・・


ちっぽけな私にまた少し希望が見えました。



今回の旅も

出会えた全ての人に

ありがとう。



そしてこの事へ関心を寄せて最後まで見てくださったあなたにも
心から感謝をこめて。


コゥプクンカ;)!!


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by macaron-framboise | 2011-08-06 19:34 | potsu Life